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2011年5月19日

一握の砂

 石川啄木の有名な詩に、「働けど働けど我が暮らし楽にならざり、じっと手を見る」というのがある。小学生の頃に教科書か何かで初めて見たのだが、働いても生活が豊かにならないことへの疲れ・虚しさを表現するのに「じっと手を見る」というのがピンと来なかった。何か手が荒れる仕事をしていて、日に日に傷だらけになったり荒れていく手を見て「こんなに頑張っているのに……」という意味なら分かるのだが、啄木の場合、そういう仕事をしていたわけでもなさそうだ。

「寝転がって天井を見つめる」「ため息をつく」といったものなら、まあ「誰でもやるよな」という意味で共感は得られる気がするのだが、なぜ「じっと手を見る」なのだろう。そこが詩人ぽいところなのか? 右手に封印していた何かが覚醒するのか? 早すぎた邪気眼なのか?

 この詩、不況になってワーキング・プアなどという単語が頻繁に聞かれるようになってから引き合いに出されることが多くなったなぁと思っていたのだが、ふと、あることに気づいた。

「手を見る」という表現で想像するのは、だいたい「手のひら」ではないだろうか。手のひらを見ているというのは、手首を上に向けた状態である。働いても働いても楽にならないということは、今現在が非常にツラいことと、ある種の絶望を表している。これらを考えたとき、詩の最後に持ってきた「じっと手を見る」が意味するのは、つまり「手首を切る自殺」ではないだろうか。とは言っても啄木は確か結核で死んでいるので自殺ではないのだが、そういうことが頭によぎったのでは、という意味で。

 だから何だと言われると困るのだけど、昔の人間が残した言葉に別の解釈が見つかると、ちょっとミステリーの犯人見つけたみたいなドキドキ、感じない? 感じないか。そうか。

 んじゃ、さらにもうひとつの解釈。
「楽にならざり」と「じっと手を見る」の間がものすごく省略されていて、実はセルフバーニング後の虚無感を表し……え? 啄木は結婚してた? フッ、甘い。啄木の詩には、結婚して仕事から帰ってきて家に入る様を「墓場に戻る」と表現しているものもあったはず。奥さんでは満足できなかった啄木は奥さんの居ない間に自家発電を行い、手のひらに放たれた情熱を眺めながら、その事後の虚しさを……

 以上、文学的な話をどうやって台無しにするかの一例でした。うんこちんこまんこー!(決めポーズ)

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| コメント (2)

コメント

うわあ…。

いや、いい意味でね。


投稿者 遊馬 : 2011年5月21日 15:33

旧・EVAの劇場版でシンジ君が寝ているアスカさんにやったアレですね!
わかります。


投稿者 巌割 : 2011年5月25日 22:10

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