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■日本一遅い『ワンダと巨像』レビュー

 初めてこのゲームに触れる人の視線と、シリーズファンの視線は違います。
 やはり、ファンのほうが自然と評価は甘くなるもので、レビューを書く際は、前作が好きだったからと言って甘くならないよう、気をつけています。
 なお、物語の結末に関するネタバレを含んでいます。


 さて不安な書き出しで始まりましたが、続編の出来に失望することが多い中、個人的には『ICO』に迫る良作だと思っています。

「迫る」。それでは「超えて」いないのか? と聞かれると、ここが返答の難しいところで、まずゲームジャンル自体が違うことと、
 ゲームの仕様が大きく違うことがポイントです。
『バイオハザード』の後に『デビルメイクライ』が出て、「ね、バイオ超えてた?」と聞かれても困るわけで。


 まず、俺が感じた『ICO』の魅力を端的に挙げるならば……

・「霧の城」の建造物としての幻想的なリアルさと美しさ
・簡単すぎず難しすぎない、理想的な難易度の仕掛け
・最後まで世界観やキャラクターの詳細部分は明かされないが、エンディングでは、なぜか何かが胸にこみ上げてくる

 中でも特に推したいのは、「建造物としての幻想的なリアルさと美しさ」。思い返すと、やはりこれが一番印象に強いです。
 その点だけで言うなら、『ワンダと巨像』の舞台となる「地の果て」に広がる広大なフィールドも同じくらい魅力的で、
 だだっ広い印象が強いものの、一応、外界から隔離された閉鎖空間であり、魅力的な箱庭を作り出しています。

 ただ、「孤島に立つ城」と比べると相手が悪いというか。
 霧の城は、進んでいくうちに「あ、あそこ、さっきいた場所だ」というのが城の2階部分から見下ろせたりして、
 孤島に建てられた、巨大で謎めいた城の全貌がちょっとずつ明らかになっていく感覚みたいなものが魅力の一つでもあったのですが、
『ワンダと巨像』では完全な平面なため、そういう多重構造は期待できません。
『ICO』がマンション的な「縦」の構造なら、『ワンダと巨像』は広大な土地に作られた平屋、「横」の構造です。

『ワンダと巨像』というゲームに何を求めるのか?
 ここがハッキリしていないと、レビューは真っ二つに意見が分かれると思います。


■美しい世界

『ICO』の魅力のひとつだった “美しい風景” は、今作も文句なし。“霧の城” という閉鎖空間だった『ICO』に対し、
 限定地域とは言え、広大なフィールドを舞台とする『ワンダと巨像』は、『ICO』には無かった “自然” の美しさが際立ちます。
 光と影のコントラストは PS2 の限界を極め、2D 時代のドット絵に並ぶ、3D 時代の “ポリゴン美” が、たしかに、そこにあります。


■巨像との戦闘シーンの迫力は納得の完成度

 自分より遥かに巨大な敵に立ち向かうこと、それをゲーム化することについては大成功している、と言えます。
 原始時代に、人はどうやってマンモスを倒したのか、みたいな。特に、大空を舞う鳥型巨像との戦闘は迫力満点でした。
 ……一度、下に落ちるとリカバリーが面倒で軽く萎えますけど。

 また、巨像 16 体という数もハンパに多く、途中ちょっとダレがちに。
 個性的で、戦ってて楽しい巨像もいましたが、面倒で二度とやりたくない巨像や似ている巨像もいて、
 巨像の数とバリエーションは、もうちょい練った方が良かったかも。
 倒し方についても、弱点への到達方法さえ分かれば、あとは延々と剣を刺すだけなので、
 倒し方はもう分かってるのに振り落とされたりすると、微妙にストレス。


■ストーリーについて

 少年・ワンダは少女を生き返らせるため、死人を蘇らせることのできるという “地の果て” にある祭壇を目指す。
 愛馬のアグロに乗り、何日もかけて辿り着いたそこは、人がひとりも居らず、時の流れすら定かではない、閉ざされた空間だった。
 突如聞こえてきた謎の声の主・ドルミンが言うには、この地に封印されている 16 体の巨像を破壊すれば、少女を生き返らせてくれるという。
 今のワンダは、その言葉を信じるしかない。ワンダはアグロと、村から持ち出した剣だけを頼りに、16 体の巨像の破壊を決意する───。

 『ICO』と同じく、全ては明らかにされず、不明瞭な部分は多く残ります。
 ──少女とワンダの関係は? 妹なのか? 姉なのか? 恋人なのか? 片想いなのか? 両想いなのか?
 ──少女は何故、死んだのか?
 ── "謎の声" の正体は?

 ネタバレになりますが、結末について。
 ドルミンの思惑通り、ワンダに 16 体の巨像を破壊させ、封印を解いてこの世に復活することができたものの、
 ワンダを追ってきた村人と村長らしき人物らが、ワンダが持ち出した剣を使って、早々に再度封印を施してしまいます。
 しかし、ドルミン復活から再封印までの間、ワンダの体を使って復活したためか、明らかにワンダの意思も残っており、プレイヤーが操作可能。
 この「操作できる」という点が裏目に出て、もうひとつのハッピーエンドの存在を疑う根拠に。
 発売からしばらくの間、ネット上では、まるで『かまいたちの夜2』のときのような「真エンディング探し」が行われましたが、
 残念ながら、そんなものは無いという結論に落ち着きました。

 2004 年に、SCEは「ニムロデの巨像」という商標を出願しています。
 名前からして『ワンダと巨像』の前身と思われますが、「ニムロデ」とは、あのバベルの塔の建設を指示した王の名前。
 バベルの塔は遥か天を目指して建造されたものの、その事が神の怒りに触れ、人類の “言葉” に呪いをかけて言葉を通じなくしてしまい、
 塔の建設を中止に追いやったという有名な伝説。これが今日、世界中に様々な言語がある所以だとも言われています。

 ここで注目すべきなのは “ニムロデ” のスペル、「Nimrod」。これを逆から読むと「Dormin」、すなわちドルミンとなります。
 ニムロデ王はあまり良い人物ではなかったらしく、そのあたりも同じだとすると、ドルミンもやはり、過去に神の怒りに触れて封印された者であり、
 ワンダを騙して巨像の封印を解かせた悪魔、という解釈で良さそうです。
 巨像を倒す度に黒い何かがワンダの体に入り込み、それに伴い、ワンダの外見が黒くなっていくことからも、
 ドルミンはワンダの体を乗っ取ろうと考えていたと思われます。
 ただ、ワンダは最初にドルミンとの会話で「代償は覚悟の上だ」と言い切っているため、
 最悪、自分の命が危うくなることも想定内だったように見えます。

 バベルの塔の神話と、イコとヨルダの言語が違ったことを照らし合わせると、『ワンダと巨像』は『ICO』より遥か昔の話で、
『ICO』の時代、イコの村にツノが生えた子供が生まれることになった元凶こそがワンダではないか、という想像もできます。

 こういった、ややこしくアヤシイ符号の数々が原因で、しばらく結論が出せずにいましたが、
 あのエンディングが全てと考えると『ワンダと巨像』は、
「たとえ自分の身がどうなろうとも、たとえそれが禁忌だとしても、大事な人のために、人間としての全身全霊を傾けた男の物語」。
 一見、悲しい結末ではありますが、ドルミンが約束を守ったのか、わずかに残っていたワンダの意思がそうさせたのか、
 少女の復活は成功し、ワンダの願いは叶ったことになります。

 ただし、果たしてそれは正しいことだったのか。
 プレイヤーはワンダの戦いを通じて、自分よりも遥かに強大な敵に挑む人間というものの強さを見せ付けられますが、
 微妙にスッキリしないエンディングを見る限り、これは “罪の話” ではないか、とも思います。


■「アダムとイヴ」との共通点

 創世神話として有名な「アダムとイヴ」は、蛇にそそのかされて知恵の実を食べてしまうことで神の怒りに触れますが、
『ワンダと巨像』は、この世界における “原初の罪” を表しているような気もするのです。

 知恵の実を巡る話は神への不服従、人間の原罪であるとされています。
 何不自由なく楽園で過ごせたはずの人間が、自らの意思で反逆して神の庇護から離れたことで、今現在の人類の形がある。
 エデンの園には2本の樹があり、神の言いつけ通りに知恵の樹の実には手を出さず、
 生命の樹の実だけを食べていれば、神同様に永遠の命を得られたとも言われています。

 これは「知恵を得て、神の庇護から離れて苦難の道を歩む」のか、「知恵を捨てて、神の元で永遠に平和に暮らす」のか、
 このふたつの選択肢があったが、人間は、たとえそれが苦しい道だとしても、そちらの道を選んだのだ、という意味にもとれます。
 悪くとれば、人類の歴史は何世代にも渡る罪の浄化、“禊” である、ともいえますが、
 それはあくまで神から見た考え方であり、善悪で考えた場合、善とも悪とも言い切れない行動です。

 人間のとった行動は果たして罪なのか、それとも、正しいことなのか。永遠に答えなど出ることのないテーマではありますが、
『ワンダと巨像』は、ワンダの行動を通じてそれを問う形になっているような印象も受けます。
 スタート地点である古えの祠の頂上は、まさにエデンの園を思わせる庭園になっており、知恵の実らしき木の実もあります。
 これを食べると握力が低下してしまうし、別に良いことは何もないのですが、上記の話を思い浮かべた上で祠の頂上に到達してみると、
 ワンダと少女は、この閉ざされた空間の「アダムとイヴ」だったのではないかと思えるのです。


■やり込み要素について

『ICO』のレビュー時に、「やり込み要素の絶対的な不足」について書いたのですが、
 やはりそういう声は多かったのか、今回はクリア後に「ハードモード」と「タイムアタックモード」の追加が。
 しかし『ICO』や『ワンダと巨像』が好きな層とタイムアタック系が好きな層というのはあまり重ならない気がして、
 “やり込み要素の方向性” を少し間違っている感じを受けました。

 タイムアタックモードを規定タイムでクリアするごとにアイテムが入手できますが、これらのアイテムは、
 せっかくこれだけ広大で魅力的なフィールドを構築したのだから、各地の分かりにくい場所に隠しておいてくれた方が良かった気も。
 後半のアイテムは、今まで取ったアイテムの複合使用で、頭をひねりにひねってやっと辿り着けるような場所に配置するとか。
 全てのアイテムを集めて、ようやく辿り着ける場所にメチャメチャ強い隠し巨像とかいると、ゲームとして完璧だったかもしれません。
 ただ、こうなるとかなり『ゼルダの伝説』に近くなってしまうのも、たしかです。

 周回をこなしてワンダの握力を鍛えると、スタート地点である古えの祠の頂上に登れるというのは面白かったのですが、
 あまりにも意味深に置いてある禁断の果実は「何かあるんじゃないか」と、アナザーエンディングの存在を疑う要因の一つになってしまいました。
 どうせなら2周目以降限定で、頂上でドルミンと対決できても良かったんじゃないかと思ったり。

wanda_ent.jpg
古えの祠に登ると、あの長い道を通って "地の果て" の入り口まで行くことができる。
"地の果て" の外へは、強風が吹いていて戻ることはできない……。


■『ICO』との繋がりは?

 直接的な繋がりは無く、世界観が共通してるかもよ、程度の認識がベストかもしれません。
 エンディングや、タイムアタックモード最後のアイテムとして『ICO』の女王の剣が出てくるのを見ると、
 時間軸は違えど、『ICO』の世界と繋がっているのは間違いないと思いますが、なにぶん情報不足で決定打には欠けます。

 あと、ワンダの前掛けはイコの前掛けと模様がほとんど同じことからも「出身の村が同じではないだろうか」との想像もできます。


■総合的に見て “ゲーム” として

 ジャンルを違うものを比較すること自体ナンセンスという事は分かっていますが、
 それでもあえて比較するならば、個人的には『ICO』は超えていない、と感じます。
 ただ、グラフィックのクオリティや技術的な面では遥かに超えているので、一概に「超えていない」というのは難しいのですが、
 以下に、個人的な感想をダラダラと書いてみます。


『ICO』は “子供の頃に見た不思議な冒険小説” 的な雰囲気があり、ひたすら城の仕掛けを解いて先に進むだけでありながら、
 途中、女王の出現や少女との分断、石化、謎の剣の入手、女王との対決……など、段階ごとに先が気になる展開を見せます。

 対して、『ワンダと巨像』は初っ端にストーリーの大部分が語られたも同然で、巨像何体かごとに村人の接近などのシーンが挿入されるものの、
 基本的には巨像 16 体倒す→結末まで、ほとんど変化がありません。
 “巨像を倒す” という部分がゲームのパーセンテージを占めすぎている感があり、ゼルダの伝説になりきれなかった印象が強め。
 奇しくも、馬に乗って走りまわったり、トカゲを狩ったりするあたりは
 ゼルダの伝説『時のオカリナ』の馬・エポナで走り回ったり、「黄金のスタルチュラ」を狩るのに似ているだけに、余計にそう感じます。

 それに、『ICO』をプレイ済の人は色々と想像できる部分があるのですが、いきなり『ワンダと巨像』から入った人などは、
 かなりバッドエンドな物語として記憶に残るのではないかと思います。

 制作期間は約4年だそうですが、開発期間の長さに対して “遊べる時間” は相当に短いかも。
 10 時間以下でクリアできる上、ハードモードやタイムアタックモードがあるとはいえ、プレイした全員がそれらを全部やるとも思えません。
 ストーリー的にも素直にハッピーエンドとは言い難いため、人によっては満足を得られない可能性も十分にあります。

 というか、これだけ書いてる俺自身がタイムアタックモードとか全部解いてません。
 全部解き尽くしてから書こうと思っていたのですが、このままでは時間の都合上、いつになるやら分かりませんので、
 タイムアタックモード・ハードモードを解いてもエンディングに変化は無いという情報を得た上で、
 エンターブレインから発売された攻略本&ファンムック的な本『ワンダと巨像 古えの地綺譚』も読み尽くしてから書いていますので、御容赦を。


 しかし『ワンダと巨像』の世界の魅力は凄まじいものがあります。架空の世界でありながら、そこにある木々の存在感、
 風の強さ、空気の冷たさまでも感じさせ、「この世のどこかには、こんな場所があるんじゃないか」と思わせる異様な説得力。
 光と影というものはこんなに美しいものなのかと再確認させられ、
 少なくともしばらくは、光と影の表現でこのゲームを超えるものは出ないだろうと確信させられました。
「ゲーム」でいうなら舞台装置の部分だけの話ではあるんですが、この美しい世界を走り回れるというだけで問答無用に満点をつけたくなってしまう。

 ゲーム性の部分、対巨像戦については、あれだけの迫力が出せただけでも合格点なのですが、
 やはり純粋に「ゲーム」として見た場合、あと一歩、何かが欲しいという感覚が残ります。
 巨像の観察、よじ登れる場所の発見、弱点への到達、剣での攻撃……まではいいのですが、この後、
 巨像の HP が無くなるまで同じことの繰り返しに終始します。このあたりがなんとかなれば。

 周囲の建物を破壊する巨像がいましたが、近くの塔に登って、体当たりさせて、また次の塔へ……という手順は、面倒でしかありません。
 2周目以降なら尚更。特にラスボスの面倒臭さは一級品で、クリアした時に「やった、倒した!」ではなく、
「や、やっと終わった……」という人の方が多かったのではないでしょうか。
『ICO』と違って、せっかく周回をこなすことに意味が出来たのに、一部の面倒な巨像戦や、16 体という巨像自体の多さが、
 2周、3周と進める意欲にブレーキをかけます。この点が残念でした。

『ICO』の優れている点は、総合的に見て、決して難しくないゲームだということ。
 あんまりゲームをやらない人でも、最初にカンタンな操作法さえ覚えれば、あとは頭脳勝負です。
 時々、黒い影との戦闘がありますが、まず大丈夫でしょう。

『ワンダと巨像』はメインがアクションになったため、ある程度のゲーム的な操作が求められます。
 かなり考えて作られてはいますが、『ICO』をクリアした人ならこれも、というオススメ法は出来ません。
 人によってはクリアできない可能性もあります。普段からアクションゲームをよくする人なら問題ありませんが、
『ICO』のようなゲームしかやったことがない、もしくは普段からほとんどゲームをしない、という人があのラスボスまで倒せるとは思えないのです。
 面白そうな効果のアイテムの入手法が、タイムアタックというのも微妙なところです。

 そういった点を考慮すると、やや『ICO』に軍配が上がります。
『ワンダと巨像』は決してダメではありませんが、もしどちらかを他人に勧めるとしたら『ICO』になるだろうな、と思うのです。


 最後に……

“このを離さない──僕の魂ごと離してしまう気がするから。”

 ネット上で誰かが言っていた、『ICO』のキャッチフレーズのパクリなのですが、このゲームを見事に表している名フレーズだと思います。

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